Web屋パパの日々の泡

子育て、ウェブ、サッカー、キャンプ、とりあえず身の回りのいろんなことを自分のログとして書き記していくブログです。

平成の終わりに

「平成の終わり」がセンチメンタルかというとそんなことはなくて、新しい時代だと言っても同じような事を年明けと年度明けにも思ったから大安売り感は否めない。自分の中の一区切りとしては31年は長すぎる。

でもまあ、色んなことがあったねとなんとなく振り返る


平成が始まったときは小6の終わり頃。年末から天皇陛下の容態が思わしくないと連日報道され、どちらかというと「テレビ見られへんやんけ、人間が1人なくなるのに大袈裟やねん」くらいの感覚だった。それが自分の考えなのか家でとってた朝日新聞かメディアか、なんの影響かはわからないけど「元号変わるとかめんどくせえなあ」くらいの感じだった。


そしてそこから、僕の凡庸な平成時代が始まるわけだ。あまりに凡庸過ぎて振り返るのも馬鹿らしいけど。

凡庸な人生を歩みたくないという凡庸で人並みな想いを抱えて、自分は何か特別な人間に違いないと途方も無い事妄想して、でもあまり誰からも求められず、イジメにあい、ひねくれて、それでも何かになろうとしたり自分探したりしながら平成のほとんどを生きてきてた。


くだらなくて恥ずかしくて、イキってていちびって、他人の評価を気にして器は小さく、そのくせ自己愛は強くて面倒くさいやつだなあと今でもよく思う。


恋をして、フラれて、いろんな人と出会ったり別れたり、未だにアイデンティティなんて何かよくわからないまま子供と向き合っているけれど、そういう自分にとって子供はとてもよい。子供と対峙すると自分が完全に丸裸になるし、そして父親であるというたったそれだけの理由で自分の事を条件も譲歩もなく受け入れてくれる。もちろん友人や奥さんだってそうなんだけど、子供は少し違う。父親である、という事でようやく自分のアイデンティティが少しはっきりしたような気がする。


こんなに稚拙で自己愛に溢れて、ややこしくて雨男なのは僕自身だけなんだろうか。僕の父親や母親も、自分の凡庸さと向かい合ったりしてたんだろうか。話してみたい気もするし聞かなくてもいいような気もする。いずれにしても、平成はもうすぐ終わってしまうんだなあ。


そのタイミングで娘が小学校6年になり、自分があの頃に感じていたのと似たような事を思ったりしてるんだろうか。僕の父親よりは過干渉なのかもしれない。過干渉ってなんだ。子供と向かい合うことほどこの世に面白い事はないというのにさ。



めんどくさい性格だった青春時代や、凡庸な自分を認めるのが嫌で必死にあがきながらクリエイティブ職についたりしたけれど、どこまで言っても自分は変わらないもんだな。最近はようやくそれを受け入れて「別になんでもいいや」って思えるようにはなってきたのでとても楽しい。


平成が文字通り平和な時代だったかはよくわからないけど、無事に生きているし、このDNAを残すというミッションにも今の所成功してる。してんのか?まあいいや。


自分は何者でもないやというシンプルな開き直りは父親という役割を得てようやく落ち着いた。だからなんというか、奥さんと子供には本当に感謝しております。いつもありがとう。


そういや今日でTwitter登録して12年ですと通知があった。平成の4割もTL汚しながら生きてきたってすごいよね。少しよれてきた革袋のなかに、自分という形をなんとか留めてくることが出来たのは何割かはTwitterのTL眺めたり吐き出したりする事のおかげだと思ってる。なのでどうか高機能にならずこれからも適当なサービスであってください。

てことで、明日は法事、その次からはちょっと長い旅に出ます。楽しみだなあ。



皆さま、令和の時代もどうぞよろしく。